米国の医療訴訟文化の泥沼

 今朝のBBCラジオで、米国の医療訴訟問題にかかわるアメリカ人女性のインタビューを聞きました。
初めてのお子さんが、新生児黄疸を見逃されたために、脳性小児麻痺に陥ったという件で、訴訟を起こし、第一審敗訴の手紙を受けたそうです。同じ頃、ご主人が癌と診断され、またしても誤診に巻き込まれて…というお話でした。
ご主人の腫瘍が術直後、良性と診断され、その後の細胞診で悪性とわかったにも拘わらず、その結果が主治医届かなかったという、複雑な経過が後日あきらかになりました。 再発し、悪性と解った頃には、治療不能な状態であり、そちらのほうも医療過誤であったというのが彼女のうったえでした。
ラジオインタビューのようなおおまかな話では、事件の真相や全貌を知ることは難しいのだけれど、米国の訴訟文化の実態を垣間見た思いです。
 家族の健康問題というのは、当事者にしかわからない苦痛と苦労があり、第三者がコメントすることすら憚られるという気がする。
ただ、このケースで、もっとも不幸に感じられた一こまは、お子さんの治療に当たった医師から「今後(訴訟後)この子どもが非常事態に陥った際にも一切の治療を引き受けないこととします」という果たし状が、両親の元に送られたということでした。
患者の安全の権利と医療者の護身権?が果し合いのような様相を呈したという具合です…。
 
 このブログは、医療の原点を考えるというテーマがあるのですが、
「一体全体、医療とは?何なのか」ということをこのストーリーによって、さらに考えさせられてしまいました。
「人は、何時も他者の命に対してできうる限りのケアを提供しているという」大前提の信頼感が崩れてきている危機を感じました。
 このご家族は、経済的に裕福らしく、以後、お子さんの療育のために別の州に引越し、ご主人の癌治療も自宅から遠く離れたがん治療、最高権威の評判を持つ名医の治療を受けたということです。
最高の医師による治療に誤診があり、ご主人の余命は、はじめの診断から一年半だったということも彼女に不満と後悔の色濃さを残しているようでした。
看取りはディズニーワールドのいちアトラクションを一週間借り切り、53名を招き、ご主人は、その船の上で亡くなられたということでした。
  医療が高度化するにつれ、命が本人の肉体を離れて、他者の技術または医療機器に一時的依存するということが物理的に起こります。
 そんな時、我々医療従事者は、どういう重さの責任を背負うのでしょうか?
高度技術による奇跡的治療??は医療の技術の神格化と同時に命が運命に支配されいるという側面を忘れさせる・・・ということを感じます。

 そして、そのことによって苦しむのは、患者という立場のみならず、医療者の敗北感という形で、そして人間同士の不信感と不満という形であらわれて来ている事をこのケースに感じました。
 幸か不幸かイギリスは、NHS(国民医療保険)の貧しさで、このような高度医療への期待どころか、過少医療への不安という真反対の問題を抱えております。
医療に期待しない分、命の責任は、あくまでもご本人に所属しているし、いざというときには「諦める」という変な?覚悟すら感じます。
by あやこ
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by holistic-care | 2006-01-18 09:12 | 雑記
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